『だれかが生きている』



だれかが生きている
そこに
あそこに
あんなところにも

だれかが生きている
太古の時代に
ほんの昨日に
たった今この時にも

だれかは生きていて
だれかは死んでしまって
だれかは生まれてくる
くるくる回り回るだれかが

だれもが生きている
だれかを生きている
たしかに生きていた
だれかをおもいだす



無題

タグリジュングリガラガラヘビ
しっぽをむぐうとつかんだが
脱皮だ ぺっと唾のように
脱皮だ ぺっと唾のよう
脱皮だ ぺっと唾の妖
脱皮だ ぺっと唾の踊
脱皮だ ぺっと唾さ
脱皮だ ぺっと唾め
脱皮だ ぺっと唾き
脱皮だっぺ翼生え
脱皮だっぺ燕鳴き
脱皮だっぺ椿咲く
脱皮だ ぺとり
脱皮だ ぺろり
脱皮だ ぺり
脱皮だっけ?
脱皮だって

タグリ
ジュングリ
互いをぐりぐり
かんぐり てさぐり
まさぐり まぐわり
あなぐら もぐり
えぐり くぐり
ごちそうさま
と ごくり



『誰かがタマネギを炒めている』 ── Past Truth, Post Truth ──

 地球は亀が支えている。それは真実である。ただし正確ではない。亀が支えているのは、正しくは地球に転生したタマネギである。
 我々の住む、このオレンジ色の大地と海。それこそが、地球が転生したタマネギである証に他ならない。したがって我々は、あっさりと剥かれ容赦なく捨てられる、あのオレンジ色の表皮の上の塵に等しい存在である。

 ──余は亀のスープを所望である──

 それはお告げであった。時を置かずして、大津波が世界を呑み込んだ。オレンジ色の海はめくれ上がり、我々はなすすべなく流される。「ザクッ」という雷鳴が轟き、空が割れた。
 遠のく意識の最中、たしかに見た。空の向こう、ごうごう燃える太陽の炎で熱された、黒く大きな大きな鍋を。



『誰かがタマネギを炒めている』

 西の空が飴色に染まる。



『ブルース』

 「地球は青かった」と、先人の遺した同じ台詞をつぶやく。
 いまや地球はすっかり泥団子だ。神の怒りか悪魔の宴か、世界中の海という海は泥土と化した。人も動物もたくさん死んだ。おれはどうにか生きている。神の慈悲か悪魔の罠か。どのみちおれにはわからない。神でも悪魔でも変わらない。
 元・水平線に陽が沈む。元は海だったぬかるみから、今宵もピアノの音が聴こえる。今宵もおれはぬかるみに足を踏み入れる。
 泥に咲くは蓮の花。半分沈んだ小屋に灯りがともる。酒場だ。
 窓から入ると、中には黒い翼を広げたピアノが一台。そして女が一人、鍵盤をずたずたと叩くたびに小屋がきしむ。この店の主人だ。
「スコッチ? バーボン? ビール?」
 封の切ってないボトルを並べてお決まりの台詞をおれによこす。それには答えずに女の元へ詰めよる。
 女が黒い翼を広げる。おれはそれをずたずたにする。
「好き?」と女が訊く。お決まりの台詞。
「ただやりたいだけだ」おれの返事も。
 ぐらりと小屋がゆれた。完全に沈むのも時間の問題だ。地球は青かった。昔話だ。
 女の顔を見る。髪も頬も泥だらけ。その瞳をおれはじっと見つめる。
 なんだ。やっぱり青いじゃないか。



『ほくほく街道』

 だれも通ったことのない街道が、かつて幾つも存在した。
 なぜだれも通ったことがないのか。それらの街道が実は生きていて、人を避けて動いていたからである。
 名を挙げるなら、かりかり街道、さくさく街道、ぷりぷり街道、とろとろ街道──かつて国中に棲息し、密かにただよっていたこれらの街道は、今はもう存在していない。
 なぜ存在しないのか。食べられたからである。人知れず繰り広げられた弱肉強食によって。
 人との遭遇を避ければ、自ずと移動場所は限られる。ゆえに街道は他の街道と鉢合わせる宿命にある。そして互いの生存をかけて闘う。街道は共食いをするのである。
 かりかりを食べ、さくさくを食べ、ぷりぷりを食べ、とろとろを食べたもちもち街道もまた最後には敗れた。事切れる間際にもちもちが見せた表情はじつに悔しそうであった。おそらく勝者とは対照的であったろう。
 なぜそう言い切れるのか。わたしがその勝者であるからだ。この世に残った唯一の生きた街道である。
 断っておくが、街道を食べても味はしない。特にうまくもまずくもない。共食いはあくまで本能である。
 ところで、人はうまいのだろうか。



アメリカーナの愚かな夢


   ── Valerie June 『The Moon And Stars: Prescriptions For Dreamers』に寄せて──


   *


 2021年のアメリカにヴァレリー・ジューンの新作が鳴ったことの意義を想う。

 アメリカーナと呼ばれる音楽ジャンルがある。アメリカのルーツ・ミュージック──フォーク、カントリー、ブルーグラス、ブルース、ゴスペル等──に基づき、そこにモダンな解釈を加えて再構築されたジャンルであると捉えて差し支えないだろう。そして、カントリーやブルーグラスは「白い音」のルーツであり、ブルースやゴスペルは「黒い音」のルーツである。それゆえに、アメリカーナにも白いアメリカーナと黒いアメリカーナとが、やはりあるようにおもわれる。
 今、ぼくは少なからず欺瞞のある書き方をした。アメリカーナは、基本的に「白い側」からのアプローチであると見ていいからだ。「黒い音」を包括してはいても、主体は白い側にあり、白い側の眼から見たアメリカン・ルーツの継承と発展のための音楽が、アメリカーナである。
 ヴァレリー・ジューンはアメリカーナの歌手である。そして、彼女は黒人の女性である。

 2021年現在、ヴァレリー・ジューンの新作の意義をぼくは想う。

 分断を深める現在の世界において、アメリカのそれは特に顕著だ。そもそも、アメリカの歴史は分断の歴史であるといってもいい。それでも表面上は融和へと向かっていたものが、やはり本質は分断である、とより露わとなったのが現在なのかもしれない。
 ヴァレリー・ジューンの音には、「黒い音」であるゴスペルやソウルやそしてブルースのみならず、「白い音」であるカントリーやブルーグラスも内包されている。まさしくアメリカーナとしかいいようのない音楽を彼女は鳴らす。ギターを弾き、バンジョーを弾き、ゴスペルを歌い、カントリーを歌う彼女の中に「一つのアメリカ」がある。そのことの意義をぼくは想うのだ。

 遡れば、戦前の黒人ジャグ・バンド等は、ジャズでもブルースでもカントリーでも分け隔てなく演奏していた。アメリカーナのいわば始祖といってもいい。ジャズにしても、発生当初から白と黒とが混在していたはずだ。
 そこから時を経るにつれ、アメリカの音楽は演者もジャンルも分化されていく。黒い側の権利が増すにつれ、分断が可視化されはじめる。
 たとえばエルヴィス・プレスリーを筆頭としたロカビリーの歌手や、ボブ・ディランをはじめとするフォーク・ロックの旗手のような、「白い音」にも「黒い音」にもまたがる音を鳴らす者はこれまでにも数多くいた。だがそれもあくまで白い側の眼を通してのアプローチなのであり、アメリカを包括する権利を(暗黙の裡に)持っているのは白い側であるのだ。
 そしてアメリカーナとして定義し直された音楽が、21世紀以降に台頭してくる。
 「黒い音」が席巻する現代アメリカ音楽界において、なぜ「白い音」を主体とする音楽の方に「アメリカ」が冠されるのか。あたかもそれは、白い側が頑なに引いた、いびつな防衛線のように映る。

 音楽は言語を越えるだの、人種や国境を越えるだのという物云いを、ぼくは信じていない。
 越えられないと云っているのではない。順番が違うという意味だ。
 言語より先に、人種や国境よりも先に、まず音楽があったのだ。他はあとからやってきて、勝手に線を引いたのだ。

 はじめから。
 音楽はすべて混血である。

   かつて隆盛を誇り、やがて奪われたジャグ・バンドの精神──その混沌の楽しさと心地よさは、100年の時を経てよみがえることになる。よりモダンにアップデートされた形で。

 2021年現在、ヴァレリー・ジューンの鳴らす音楽こそがアメリカーナであるとぼくは断言する。

 彼女のなかには「白い音」も「黒い音」もあり、まったく自然に同居している。まさしく、はじめからそれがあたりまえのことであるかのように。
 たとえば彼女はゴスペルを歌う。ゴスペルはキリスト教に改宗させられた黒人奴隷たちが生み出した、アフリカ由来の霊歌と教会音楽とが融合した讃美歌である。
 たとえば彼女はバンジョーを弾く。バンジョーはカントリーやブルーグラスにおける主要楽器の一つとなった、アフリカに起源を持つ楽器である。

 くりかえす。
 まず音楽があったのだ。

 ヴァレリー・ジューンの音楽は、前述のルーツ音楽はもちろんのこと、そこから派生したソウルやロックをも巻き込み──分断の裂け目から生まれてくる様々を吸収し、そしてまた裂かれた傷を癒すように──アメリカの100年を軽やかに踊りながら駆けぬけていく。
 ヴァレリー・ジューンの登場によって、アメリカーナは本来の姿を取り戻した。そして、眼を向けるべきは、その先の未来である。

 「The Moon And Stars: Prescriptions For Dreamers」──ヴァレリー・ジューンの新作には、アメリカーナの未来が鳴っている。

 美麗なストリングスや溌剌としたアフロビート、果てはエレクトロニカに至るまで周到に配置され、ポップに彩られた本作。過去の原点を呼びさまし、現在に融和を施し、そして未来までのびていく一条の光のような音像に、幾度となく胸が熱くなる。
 本作を支えているのは──キング牧師を引き合いに出すまでもなく──夢想することの尊さと、そのための強固な楽天性である。そしてこの夢想と楽天性は、きわめて自覚的なものだ。なぜなら彼女の出自──黒人の女性であること──を鑑みれば、こうしている現在もシビアな現実が立ちはだかっていることを、云われずとも身をもって知っているはずだからだ。
 だからこそ、である。

 本作の中心に位置する曲を聴いてみるといい。メンフィス・ソウルの女王カーラ・トーマスをゲストに迎えての、サザン・ソウル新たな名曲『Call Me A Fool』を。

 Call Me A Fool ──わたしを愚かと呼ぶがいい、と彼女は歌う。

 愚かと呼ばれることを厭わないほどに尊い夢を見るのだ、愚かな夢こそが現在を、現実を超えて未来へ届くのだというように、彼女の歌はこちらへと響いてくる。だからこそこれほどにも楽天的で、夢想的で、多幸感に満ちた音であるのだ。これが何らの自覚もない、ほんとうに現実を知らないだけの子供じみた夢であるというなら、なぜ彼女の歌声はこれほどにもぼくの胸をうちぬいてくる?

 うちぬかれながら、ぼくは想う。ぼくの愚かな夢を想う。

 ひとたび現実を見渡せば、今なお険しいままであるのは一目瞭然といえる。差別も貧困も争いも、決して消え去ってはくれないし、ほんとうに消え去ってくれるなんて誰も信じてはいないだろう。それでも、希望の種をまくことを、時計の針を進めることを、夢見ることを諦めるいわれはない。
 うんざりするような分断の絵図を目の当たりにしながら、ぼくは音楽に耳をすます。
 分断の裂け目がより露わになればなるほど、その傷口から聴こえてくるものがある。
 新しい世代のバンドやシンガーやソングライター達は、誰もかれもが軽々とジャンルを超越し、まるで傷などなかったかのようにその肌をなめらかなグラデーションにしてしまう。
 ヴァレリー・ジューンもまた、そんな新たな時代が呼んだ寵児であるのだろう。そのなかでも最も深い傷口──アメリカの裂け目を、彼女は縫い合わせていく。

 2021年に、ヴァレリー・ジューンが鳴らしたアメリカーナの未来。それは誰かから愚かだと嘲笑されるような、涙がでるほどに美しい混交と融和の未来。過去も現在も貫いてのびゆく未来だ。

 ぼくもまた愚かな夢を見ている。
 どんな現実のなかにあっても、そこで鳴っている音楽は美しいということ。
 その音楽はすべて混血であるということ。
 なによりも先に、音楽があったのだということを、ぼくは信じている。
 信じられる。
 この音があれば。

 ──だって、はじまりが聴こえるだろう?


  *



   文・穂坂コウジ



『眠りすぎないように』

 カチカチと鳴っている。カスタネットみたいな音。わたしは目をあける。
 赤いおばけと青いおばけが、天井の辺りに浮かんでいる。ふたつはぴったり重なって、互いをぶつけ合っている。鳴っているのはその音だ。
 たぶん、見てはいけないものを見ているから、わたしの顔は赤くなっているに違いない。ベッドから起きあがり、いそいそと部屋をあとにする。顔を洗い、朝ごはんをたべ、歯みがきをして部屋にもどると、おばけはいなくなっている。
 おばけは毎朝現れる。いや正確には毎朝ではなく、夜ふかしした翌朝には現れない。おかげで寝坊しそうになるので、そんな日こそ現れてほしいのだけど。
 今朝は、いつもより長いあいだ聞こえてきた。どうしてか、目を上手くあけられない。するうちに音はどんどん速く、高くなる。あまりに甲高くって、わたしはきっと恥ずかしくって真っ赤になっている。やっとのこと、わたしはパッと目をあけた。
 いつもと違う天井だった。起きあがろうとしたけど、からだが動かない。何人もの知らない人が、わたしの顔をのぞきこんだり、周りをバタバタかけ回っている。あれ、ここ、病院?
 と。おばけはひときわ高く「カンッ!」と鳴り、消えた。



『少女、銀河を作る』2

 シュークリーム二つに割って、中のクリームかき出して食べる。すっかり空にしたところで、そこに今度はなにを詰めようか。あんこ。あんこがいい。引き寄せられる魅惑の暗黒。こしあんだったら漆黒っぽい。
 なにを混ぜよう散りばめよう。抹茶は飽きた。イチゴやキウイも悪くないけど、もっとキラキラしたものを。ザラメ? そんな恐ろしい。サダコにカヤコをぶつけるな。こんぺいとう? 固いよ。固い。現代人はアゴ弱い。
 こまかく砕いたくるみなんてのは。そこにすりごま加えたら。とどめにきなこ! ソーメニーキナコ! なにが悪魔の粉かって話!
 けっきょくキラキラはしなかった、けどいい、もういい、抗えない。だって真理はここにある。決してマリトッツォではない真理だ。そうだミルクを忘れちゃダメ、ぜったい。これまた真理。神の意思。
 できた。できてしまった。わたしは神だ。創造主。それでは出でよ、破壊神。



『少女、銀河を作る』1

 懐には金貨をしのばせ、老婆は街へ出る。表通りは華やいでいるが、一歩裏へ入ればそこは行き場のない者たちの吹き溜まりである。腹をすかせた少年が老婆を突きとばして金貨を奪いとる。老婆はよろよろと立ち上がり、杖をかざして金貨の行方を追った。
 夜、寝ている少年の前に老婆は現れ、杖で少年をめった打ちにする。そしてそのまま担ぎ上げると、住処まで一気に飛んだ。老婆は魔女であった。
 魔女の家には捕らえられた少年たちが天井から吊るされている。魔女はその獲物に向けて銀の弾を散々に撃ち込む。弾は貫通せず、体内に留まる。魔女が指を鳴らすと弾は炸裂し、体内で千々に散らばる。獲物が声にならない叫びを上げる。それでも絶命はしない。すでに魔女によって不死のからだにされている。
 魔女がまだ少女だった頃、貧しさから命を落とした一人の少年がいた。幼い命が昇った夜空を見上げた時、少女は想ったのだ。その星すべてこの手にしたいと。
 魔女が指を鳴らす。少年のなかに散らばった破片がきらきらと瞬く。決して終わることのない痛苦に身をよじらす程、瞬きは無限に変化する。それをうっとり見つめる少女のあどけない笑みは、千年前と少しも変わらない。



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