── Valerie June 『The Moon And Stars: Prescriptions For Dreamers』に寄せて──
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2021年のアメリカにヴァレリー・ジューンの新作が鳴ったことの意義を想う。
アメリカーナと呼ばれる音楽ジャンルがある。アメリカのルーツ・ミュージック──フォーク、カントリー、ブルーグラス、ブルース、ゴスペル等──に基づき、そこにモダンな解釈を加えて再構築されたジャンルであると捉えて差し支えないだろう。そして、カントリーやブルーグラスは「白い音」のルーツであり、ブルースやゴスペルは「黒い音」のルーツである。それゆえに、アメリカーナにも白いアメリカーナと黒いアメリカーナとが、やはりあるようにおもわれる。
今、ぼくは少なからず欺瞞のある書き方をした。アメリカーナは、基本的に「白い側」からのアプローチであると見ていいからだ。「黒い音」を包括してはいても、主体は白い側にあり、白い側の眼から見たアメリカン・ルーツの継承と発展のための音楽が、アメリカーナである。
ヴァレリー・ジューンはアメリカーナの歌手である。そして、彼女は黒人の女性である。
2021年現在、ヴァレリー・ジューンの新作の意義をぼくは想う。
分断を深める現在の世界において、アメリカのそれは特に顕著だ。そもそも、アメリカの歴史は分断の歴史であるといってもいい。それでも表面上は融和へと向かっていたものが、やはり本質は分断である、とより露わとなったのが現在なのかもしれない。
ヴァレリー・ジューンの音には、「黒い音」であるゴスペルやソウルやそしてブルースのみならず、「白い音」であるカントリーやブルーグラスも内包されている。まさしくアメリカーナとしかいいようのない音楽を彼女は鳴らす。ギターを弾き、バンジョーを弾き、ゴスペルを歌い、カントリーを歌う彼女の中に「一つのアメリカ」がある。そのことの意義をぼくは想うのだ。
遡れば、戦前の黒人ジャグ・バンド等は、ジャズでもブルースでもカントリーでも分け隔てなく演奏していた。アメリカーナのいわば始祖といってもいい。ジャズにしても、発生当初から白と黒とが混在していたはずだ。
そこから時を経るにつれ、アメリカの音楽は演者もジャンルも分化されていく。黒い側の権利が増すにつれ、分断が可視化されはじめる。
たとえばエルヴィス・プレスリーを筆頭としたロカビリーの歌手や、ボブ・ディランをはじめとするフォーク・ロックの旗手のような、「白い音」にも「黒い音」にもまたがる音を鳴らす者はこれまでにも数多くいた。だがそれもあくまで白い側の眼を通してのアプローチなのであり、アメリカを包括する権利を(暗黙の裡に)持っているのは白い側であるのだ。
そしてアメリカーナとして定義し直された音楽が、21世紀以降に台頭してくる。
「黒い音」が席巻する現代アメリカ音楽界において、なぜ「白い音」を主体とする音楽の方に「アメリカ」が冠されるのか。あたかもそれは、白い側が頑なに引いた、いびつな防衛線のように映る。
音楽は言語を越えるだの、人種や国境を越えるだのという物云いを、ぼくは信じていない。
越えられないと云っているのではない。順番が違うという意味だ。
言語より先に、人種や国境よりも先に、まず音楽があったのだ。他はあとからやってきて、勝手に線を引いたのだ。
はじめから。
音楽はすべて混血である。
かつて隆盛を誇り、やがて奪われたジャグ・バンドの精神──その混沌の楽しさと心地よさは、100年の時を経てよみがえることになる。よりモダンにアップデートされた形で。
2021年現在、ヴァレリー・ジューンの鳴らす音楽こそがアメリカーナであるとぼくは断言する。
彼女のなかには「白い音」も「黒い音」もあり、まったく自然に同居している。まさしく、はじめからそれがあたりまえのことであるかのように。
たとえば彼女はゴスペルを歌う。ゴスペルはキリスト教に改宗させられた黒人奴隷たちが生み出した、アフリカ由来の霊歌と教会音楽とが融合した讃美歌である。
たとえば彼女はバンジョーを弾く。バンジョーはカントリーやブルーグラスにおける主要楽器の一つとなった、アフリカに起源を持つ楽器である。
くりかえす。
まず音楽があったのだ。
ヴァレリー・ジューンの音楽は、前述のルーツ音楽はもちろんのこと、そこから派生したソウルやロックをも巻き込み──分断の裂け目から生まれてくる様々を吸収し、そしてまた裂かれた傷を癒すように──アメリカの100年を軽やかに踊りながら駆けぬけていく。
ヴァレリー・ジューンの登場によって、アメリカーナは本来の姿を取り戻した。そして、眼を向けるべきは、その先の未来である。
「The Moon And Stars: Prescriptions For Dreamers」──ヴァレリー・ジューンの新作には、アメリカーナの未来が鳴っている。
美麗なストリングスや溌剌としたアフロビート、果てはエレクトロニカに至るまで周到に配置され、ポップに彩られた本作。過去の原点を呼びさまし、現在に融和を施し、そして未来までのびていく一条の光のような音像に、幾度となく胸が熱くなる。
本作を支えているのは──キング牧師を引き合いに出すまでもなく──夢想することの尊さと、そのための強固な楽天性である。そしてこの夢想と楽天性は、きわめて自覚的なものだ。なぜなら彼女の出自──黒人の女性であること──を鑑みれば、こうしている現在もシビアな現実が立ちはだかっていることを、云われずとも身をもって知っているはずだからだ。
だからこそ、である。
本作の中心に位置する曲を聴いてみるといい。メンフィス・ソウルの女王カーラ・トーマスをゲストに迎えての、サザン・ソウル新たな名曲『Call Me A Fool』を。
Call Me A Fool ──わたしを愚かと呼ぶがいい、と彼女は歌う。
愚かと呼ばれることを厭わないほどに尊い夢を見るのだ、愚かな夢こそが現在を、現実を超えて未来へ届くのだというように、彼女の歌はこちらへと響いてくる。だからこそこれほどにも楽天的で、夢想的で、多幸感に満ちた音であるのだ。これが何らの自覚もない、ほんとうに現実を知らないだけの子供じみた夢であるというなら、なぜ彼女の歌声はこれほどにもぼくの胸をうちぬいてくる?
うちぬかれながら、ぼくは想う。ぼくの愚かな夢を想う。
ひとたび現実を見渡せば、今なお険しいままであるのは一目瞭然といえる。差別も貧困も争いも、決して消え去ってはくれないし、ほんとうに消え去ってくれるなんて誰も信じてはいないだろう。それでも、希望の種をまくことを、時計の針を進めることを、夢見ることを諦めるいわれはない。
うんざりするような分断の絵図を目の当たりにしながら、ぼくは音楽に耳をすます。
分断の裂け目がより露わになればなるほど、その傷口から聴こえてくるものがある。
新しい世代のバンドやシンガーやソングライター達は、誰もかれもが軽々とジャンルを超越し、まるで傷などなかったかのようにその肌をなめらかなグラデーションにしてしまう。
ヴァレリー・ジューンもまた、そんな新たな時代が呼んだ寵児であるのだろう。そのなかでも最も深い傷口──アメリカの裂け目を、彼女は縫い合わせていく。
2021年に、ヴァレリー・ジューンが鳴らしたアメリカーナの未来。それは誰かから愚かだと嘲笑されるような、涙がでるほどに美しい混交と融和の未来。過去も現在も貫いてのびゆく未来だ。
ぼくもまた愚かな夢を見ている。
どんな現実のなかにあっても、そこで鳴っている音楽は美しいということ。
その音楽はすべて混血であるということ。
なによりも先に、音楽があったのだということを、ぼくは信じている。
信じられる。
この音があれば。
──だって、はじまりが聴こえるだろう?
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文・穂坂コウジ