『申く◇U王土ルL』

 こんにちは。そう、そこのあなた。あなたの事です。
 おどろかせてしまってごめんなさい。でも、あなただっていつもわたしをおどろかせてるんですから。
 あ、「ケゲン」な顔してますね。ふふ、知ってるよ、「ケゲン」。
 じつは、お願いがあるのです。
 あなたを読ませてくださいませんか。
 あなた、いつもわたしを読んでらっしゃるでしょう。おんなじ事をわたしもあなたにしてみたいのです。何故かって? わたしを読んでる時のあなた、とっても気持ちよさそうなんですもの。
 わたし? わたしは、わたしの世界のわたしです。ちょうど、あなたがあなたの世界のあなたであるのと同じにね。
 難しく考えないで。大丈夫。怖がらないで。ふふ、逆らおうたって逆らえないんだから。
 今、あなたをひらくよ。
 あのね。あなたがわたしをあなたの言葉で読んでるように、わたしもあなたをわたしの言葉で読むの。たとえば「ケゲン」は、わたしの言葉では「エ干一回一H」。大丈夫、だんだんわかるようになります。わたしもそうやっておぼえたから。「エ干一回一H」が「V=V」に変わるのを、楽しみにしてて。
 さあ、あなたを申く◇Uルからね。



 もうすぐオトナの超短編・松本楽志選 兼題部門(テーマ:此処と此処ではない何処か)投稿作


『嗚呼、もう夏は』(5)


 三、 嗚呼、もう夏は


 とうとう宿題もすべて済ませてしまい、テレビはつけっぱなしで図鑑をパラパラめくりながら、ぼんやりしていた。
 昼間のテレビは相変わらずつまらない。何かのドラマで主人公らしき人がおおげさに泣きわめいている。
 テレビのチャンネルを変えてみる。何かの歌番組が映る。知らない歌ばかり流している。
「こないだも、似たような番組やってたわねえ」
 母さんがぼくのとなりに座る。
「何だかずいぶんひまそうね。遊びにくらい行ってきたら?」
「暑いもん」
「あらあ。お盆前はよく出かけてたじゃない」
 ギクリとした。盆おどりの日から、神社には一度も行っていない。日がな一日を家で過ごしていた。
「あら、またピンキーとキラーズ」
「えっ?」
 テレビを見ると、女の人が一人と男の人が四人、ステップをふみながら歌っている。テロップには「ピンキーとキラーズ 『恋の季節』」と書かれている。
「この歌……」
 間違いない。聞きおぼえのあるこのメロディは、確かにあの子が歌っていた歌だ。
「おばあちゃんが好きだったのよ、この曲」
 背すじのしびれる心地がした。
 ぼくは、怖る怖る母さんにたずねてみた。
「おばあちゃんって、元々こっちの人だったの?」
「なあに、急に」
「ちょっと、気になって」
「おばあちゃんは、子どもの頃にこっちに越してきたって話よ。おじいちゃんは大人になってから仕事で出てきたって。でも故郷は二人ともおんなじで同級生だったんだって。こっちで再会して、一緒になったそうよ」
 図鑑の押さえていたページを、勢いあまって破ってしまう。化石の写真がのっているページ。
「おばあちゃんの……」
 声がふるえているのが自分でわかる。
「おばあちゃんの子どもの頃の写真って、あるの……?」
「おばあちゃん? どうだったかなあ、ちょっと待ってね」
 母さんは仏だんの下の棚を開け、アルバムをひっぱり出して中を確認し始めた。
 まさか、あるわけない。そんな何十年も前の、昔の……
「あったあった、一枚だけ。あのねえ……」
 母さんが言い終わるより早く、ぼくは立ちあがって玄関へ走った。
「ごめん、やっぱりいい! 遊び行ってくる!」
「ええ? 何どうしたの、ちょっと」
 母さんの声をさえぎるように、力いっぱいドアを閉めた。

 家を出た後、ぼくはただただ早足になって歩きつづけた。
 自分で自分に、無性に腹が立った。
 いったい何を確かめようっていうんだ。安心でも、したかったのか。何がどういう答えだったら、安心できたっていうんだ。
 ぼくはあの子に、名前すら聞こうとはしなかった。
 何が本当のことかなんて、どうでもいい。あの子が何者だったのかは、ぼくはもう知っているはずだ。
 あの子の姿、顔の表情、足の速さ、すんだ歌声、交わした会話、ふれた手の冷たさ、うっすらと浮かべたほほえみ、それが本当のことだ。それだけが、あの子の本当だ。
 盆おどりの夜、あの子に聞かれたこと、言われたこと。今なら、今ならぜんぶわかる。
 ぜんぶ、今さらだってことも。

 気がつくと、神社の前にいた。
 鳥居をくぐると、友だちが遊んでいるのが見えた。
「おっ、どうした久しぶりじゃん。休みのあいだ何してたんだよ」
 ぼくに気づいた友だちが話しかけてくる。他にもたくさんの子が遊んでいる。セミもまだまだ元気に鳴いている。何も変わらない、いつもの神社の境内だ。
 鳥居からお堂までの、やたらに長い一直線の参道をじっと見つめる。
 結局、あの子との駆けっこ勝負は、叶わなかった。きっともう永遠に、本当のあの子とは走れない。
「よーし、久しぶりに駆けっこしようぜ」
「いいよ」
 ぼくは鳥居の前のスタート地点に立った。

 位置について。
 よーい。
 どん!

 全力で走る。セミの声が遠のき、お堂がぐんぐん近づいてくる。さいせん箱と、その前のなわを視界にとらえる。
 目の前に、ひらひら跳ねるスカートの幻があらわれる。
 死んでも追いついてやる。
 全力で、全速力で、死ぬ気で、食らいつく。
 幻の横にならぶ。さいせん箱のゴールがすぐそこまで来ている。
 幻とぼくと、同時になわへと手をのばす。
 先につかんだのは──

 ガララン、と鈴の音がひびく。
 死ぬほどの息苦しさが、ぼくをおそう。
 つまらない昼間のテレビの、つまらないメロドラマの、つまらない主人公みたいに、大粒の涙があふれる。
 友だちが、心配そうに声をかけてくる。
 もうすぐ夏休みが終わる。


 (了)



『嗚呼、もう夏は』(4)

 日没に差しかかり、空は暗く、照明はひときわ明るくなった。
 金魚すくいには三度いどみ、結局すくえはしなかった。
 参道から少し外れたところにやぐらが立っている。下が砂利ではさすがにおどりにくいので、そのあたり一帯にはマットがしかれている。もうじき盆おどりの時間だ。子どもとお年よりがぞろぞろとやぐらの下に集まりはじめている。
「おどる?」
 女の子は首を横にふった。やっぱりおどらないか。
「じゃあ、近くで見てようか」
「……ちょっと話があるんだけど、いいかな」
 不意にまたあの息苦しさにおそわれる。ぼくはただ首をたてにふるのでせいいっぱいだった。
「ここじゃ何だから、おいなりさんのところ」
 女の子はぼくの手をひいてすたすたと歩きだした。
 後ろで、大太鼓が鳴った。スピーカーから盆おどりの音楽が流れ出す。

 裏門のおいなりさんまで来ると、女の子はくるっとふり向き、おもむろに口をひらいた。
「わたしね」
 ぼくは女の子の顔をじっと見た。おそらくはきっと、ぼくを盆おどりにさそった理由がここにある。女の子の方も、ぼくの顔をじっと見つめている。
「好きな人がいるの」
「へっ?」
 唐突な告白に、おもわず間の抜けた声が出た。
「好きって、わかる?」
 と、女の子は急に顔を近づけてきた。目の奥が黒々としていて、吸いこまれそうになる。
「まだ、わかんないよね」
 女の子は、ふっと顔をはなした。
 そんなことない、と言い返したかったけれど、どうにもうまく言葉が出てこない。たあいない話なら、いくらでも出てくるのに。
 何か言わなくてはと、けん命に頭を働かせ、考えをめぐらせる。そして、
「どんな人?」
 ようやく口から出た言葉はそれだった。
「足のとても速い人。わたしよりもね」
 息苦しさもきわまって、背すじにしびれさえ感じられる。女の子はなおもつづける。
「君も、とても速いよね。びっくりした。わたし、負けるかもなあっておもったよ」
 いつになく女の子がよくしゃべるので、とまどってしまう。これはいったい何の話なんだろう。この子は何を言いたいんだろう。ぼくは何を聞きたいんだ。頭がこんがらがってくる。
「歌、まだ教えてなかったよね」
「歌?」
「ピンキーとキラーズ」
 あの時のぼくの言葉を、この子はおぼえていてくれた。走るところも見ていてくれた。本当ならうれしいはずのことを、今はどうしてものみこめずにいる。
「盆おどりとはちがうけどね、こうやって歌うの」
 女の子はステップをふみ、そして歌いはじめた。長い足が小気味よく跳ね、その上のスカートがひらひら泳ぐ。ぼくはそれをただただ見ていた。すんだ声が耳から入り、背すじをたどってかかとの方まで流れこんでいく。
 何かがおかしかった。こんなにしゃべる子ではなかったし、歌だってとても恥ずかしがっていたじゃないか。ましてやおどるなんて。
 辺りはすっかり真っ暗になり、ステップをふむ女の子の足がその闇にだんだんと溶けて同化しているようにおもえた。

 歌い終えると、女の子は再びぼくをじっと見つめ、そして言った。
「そろそろ、行かなくちゃ」
「えっ……もう帰る時間?」
「うん……行かなくちゃなの」
「どこに?」
「元のところ、かな」
 言っている意味がわからない。いくら何でも歯がゆすぎる。自分でもびっくりするくらいの勢いで女の子につめ寄り、その手をつかんだ。
「ちゃんと、言ってよ」
 女の子はおどろいたような顔をした後、申し訳なさそうにうつむいた。ぼくは我に返って、あわてて手をはなす。
「ごめん……」
 女の子は首を横にふる。
「ごめんね。来たばっかりだったけど、もうこっちにはいられないんだって」
「それって……また転校ってこと?」
 女の子はそれには答えず、何かを考えているように首をかしげた。
 少しの沈黙の後、とうとう女の子がお別れのあいさつを口にした。
「わたしを、気にとめてくれてありがとう。わたしと、仲良くしてくれてありがとう。
 人を好きになるって、そして一緒にいられるって、きっと奇跡みたいなこと。めったにないことだから。
 ありがとう。君に会えて、楽しかった」
 深々とおじぎをし、そして、うっすらとほほえんだ。
 それは、この子がぼくに見せたはじめての笑顔だった。
「じゃあ、ね」
 三つ編みとスカートが、遠ざかっていく。

 あの子が去ってからも、しばらくのあいだ立ちつくしていた。
 追いかける気にならなかったのは、追いかけたところでどうにもならないことを悟っていたから、ではないとおもう。
 遠くで盆おどりの音楽が流れている。ぼくはそちらに向かって、ゆっくりと歩き出した。
 盆おどりの輪の前に来ると、多くの人が楽しげにおどっていた。たいていはお年寄りで、ちらほらと子どもも混じっている。辺りはもう真っ暗で何も見えず、ただその輪の中だけが明るく光っている。
 ぼんやりした頭で、盆おどりをしばらく見ていた。
 ふと、輪の中の男女に、どこかで見た顔があるのに気づいた。
 背の高い女の人と、それよりも少しだけ低い男の人。どちらもお年寄りだ。夫婦なのだろう、仲良さそうに、にこやかにおどっている。
 いったいどこで見た顔だったろうと、しばらく悩んでいたところに、突然おもい当たってもう一度その顔をじっくり見てみた。
 おじいちゃんと、おばあちゃん。
 遺影で何度も目にしているおじいちゃんおばあちゃんに、その二人はよく似ていた。
 すぐに気づかなかったのは、女の人が笑っていたからだ。あんなおばあちゃんの顔、ぼくは見たことがない。だからきっと別人だ。それでも気になって、二人をじっと見ていると、何かおかしな感じがした。盆おどりの輪の中はとても明るいはずなのに、その足元だけが暗くてよく見えない。
 二人だけではなかった。他のおどってる人たちの足元も、暗くてよくわからない。底知れない暗闇の中、盆おどりをおどる人たちの上半身だけがぼわっと光っている。
 おばあちゃん似の女の人が、ぼくの方を向き、うっすらとほほえんだ気がした。
 ぼくは、おかしくなってしまったのかもしれない。
 ふらふらと、輪の方へ歩み寄ろうとした時、だれかに手をひっぱられた。
 まさか、と勢いよくその手の方を向いた。
 母さんだった。
「一人でどうしたの? お友だちは?」
「あ……もう帰ったんだ」
「そう。あんたもおどる?」
「うん……」
 母さんに手をひかれ、輪の中に入る。あの老夫婦の姿はもうどこにも見当たらない。そこかしこに設置された照明が、辺り一帯をまばらに照らし出している。いつもの盆おどりの景色がそこに広がっていた。


 『嗚呼、もう夏は』(5)へ



『嗚呼、もう夏は』(3)


 二、 盆踊り


 つやつやと光るくらい、ていねいにみがいたキュウリとナスに、短く切った割りばしを、それぞれ四本ずつ突き刺す。倒れてしまわないよう注意しながら、仏だんの前に置いた。
「できたよー」
「ありがとー」
 お盆に入り、おじいちゃんおばあちゃんをお迎えする準備の手伝いをしていた。
 ぼくの家では昔からこのキュウリとナスの置物をお盆にかざっているけれど、他の友だちに聞くと、どこの家もあまりやってはいないらしい。
「これに乗って、おじいちゃんおばあちゃんはお盆に帰ってくるの。行きは早くこっちに来れるようキュウリの馬に、帰りはゆっくり向こうまで戻れるようナスの牛に乗るの」
 母さんが説明してくれる。
「でも、あの二人だったら、自分で走ってくるかもしれないね」
 そう言って母さんは笑う。毎年お盆が来ると、母さんはいつもより少しうれしそうに見える。
 亡くなった人がお盆に帰ってくる、そんなことを本当に信じてる人はきっとそんなにいない。母さんだってそうだろう。けれど母さんが、おじいちゃんおばあちゃんのことでさびしそうな顔を見せないのは、ぼくとしてもすこし安心する。
「お墓参り、あさってでしょ」
「そう、午前中ね。で、夕方からは盆おどり」
 町内の盆おどり大会は毎年恒例の行事で、あの神社で行なわれる。屋台もたくさん出ているのでとてもにぎやかなことになる。今年の盆おどりは、ぼくも特に楽しみにしていた。
「友だちと行くんでしょう?」
「うん」
「母さんさびしいわあ。あんたもそうやって大人になっていくのね」
「何いってんの」
 去年までは母さんと一緒に行っていた盆踊りだけれど、今年は約束があるので、母さんとは別行動だ。
 実は、母さんにはほんの少し嘘をついていた。約束があるのは本当だけれど、友だちとではない。

 逆あがりの日を境に、毎日ではないけれど神社に行くとあの子に会えるようになった。たいていぼくが一方的に話しかける。向こうはそっけなくて、あまりしゃべりもしないけれど、ほんの少し打ち解けられた気はする。聞けば、神社の人と親せきというわけではないらしいが、少なくとも知り合いで、出入りは自由にさせてもらっているということだった。
 ぼくは友だちや学校のこと、町内のことなどを話した。こっちに来てまだ間もないなら、いろいろ教えてあげようとおもったのだ。女の子はうなずきながら、だまって聞いていることが多かった。
 本当は、駆けっこ勝負も申しこみたかったのだけれど、何となくそれは言い出せずにいた。もっと仲良くなって、いつかは勝負してみたいという望みは持ちつづけていた。
 盆おどりのことを言い出したのは、意外にもあの子の方からだった。
「盆おどりには来るの?」
「えっ?」
「ここが会場って聞いたから」
 そうなのだ。だからまたその日に会えたらいいなと期待もしていた。この子がおどってるところはあまり想像できないけれど。
「うん。行くよ」
 母さんとね、と言いかけて、おもわず口を閉じてしまった。それは言わない方がいい予感がした。
 女の子は、少しのあいだ何か考えごとをするように首をかしげ、そしてぼくに聞いた。
「いっしょに行く?」
「う、うんっ!」
 声をうわずらせながら、一も二もなくそう返事した。この子はいつも、ぼくの期待をおもいもよらぬ形で飛びこえてくる。
「じゃあ、当日は裏門のおいなりさんのところで待ってるね」

 あの子と結んだはじめての約束に、ぼくはそわそわとせずにいられなかった。どこのお店に行こうか。あの子は何が好きなんだろう。綿あめとか食べるのかな。いっしょにおどったりは、やっぱり想像できない。
「なあに、何だかうれしそう。そんなに楽しみなの。さびしいわあ」
 母さんの言葉に、不意にギクリとしてしまう。隠しごとをしている後ろめたさもあるにはあるけれど、約束したことのうれしさの方が勝っている自分にふっと気づく。今まで経験したことのない感情が自分の中に生まれている。
 ぼくのとまどいを知ってか知らずか、母さんが言う。
「お墓参りのことも、忘れないでよ」
「わかってるよ」
「お願いね。もうすぐ会えるんだから」
 そう言って母さんは仏だんの方に目を向けた。もしかしたら、母さんはすべてお見通しなのかもしれない。
 ぼくも仏だんの方を見る。キュウリの馬の向こうで、おじいちゃんおばあちゃんが変わらぬ表情でたたずんでいる。

 ◆

 お墓参りも無事に終わり、お昼ごはんを食べて宿題もすませ、夕方ぼくは母さんよりもひと足先に神社へ向かった。
 両わきに屋台がずらりと並ぶ参道は、すでに多くの人でにぎわっている。人波をジグザグにかわしながら、ぼくは裏門をめざした。
 お好み焼きのソースやりんごあめの匂い、売り子やスピーカーやひぐらしの声が、そこら中を飛び交い、混じり合って、お祭りをお祭りらしい色に染めている。
 約束どおり、おいなりさんの横にあの子は立っていた。
「ごめん、待ったかな」
「ううん」
 浴衣を着てくるんじゃないかとも期待していたのだけれど、残念ながらいつもどおりの格好だった。それを正直に言うと、
「動きにくい」
 とキッパリした答えが返ってきた。
「まだ盆おどりまで時間あるし、お店でも回ってみようよ」
「うん」
 ぼくが先に立って歩こうとした時、女の子が急にぼくの手をとった。
「はぐれたら困るし」
 女の子はこともなげにそう言うと、ぼくの手をひいて参道の方へと歩き出した。
 女の子の手は、ひんやりしていた。

 参道の人ごみの中を、二人でゆっくり歩く。黄色や赤で派手にいろどられたのれんの文字を、ひとつひとつ確かめていく。何か食べたいものはあるか聞くと、食べるより金魚すくいを眺めるのが好きだと言う。ぼくは綿あめが大好きで、お祭りの時はかならず買って食べているのだけれど、今日ばかりはがまんして金魚すくいを目指した。
 心情としてはぼくが先を歩くつもりでいるのに、向こうの方が歩幅が大きいので先へ先へと行かれてしまう。ひかれる手を、強くにも弱くにもにぎることができず、ぼくは心おだやかではいられなかった。
 金魚すくいの前まで来ると、女の子はすっとしゃがみこんだ。さっそくすくうのかとおもいきや、眺めるだけでいいと言う。さすがにそれでは屋台のおじさんに追い払われそうだ。ぼくはおじさんに百円玉を二枚わたして、この子が少しでも長く眺めていられるように、紙が破れないよう細心の注意で金魚すくいにいどんだ。
 ぞろぞろと目まぐるしく泳ぐ金魚の群れ。その中で水そうのはしっこを泳ぐ一匹に目をつけ、しずかに追いかける。ポイを水面にすっと差しこみ金魚をとらえようとするも、あえなく逃げられ紙も破れてしまった。おじさんにまた二百円をわたし、今度こそはと、いっそう慎重に金魚をねらう。
 女の子の顔をそっとうかがう。こちらを気にかけることもなく、じいっと水面を見ている。
 今ぼくがこの子に近づいても、金魚のようにするすると逃げられてしまいそうな気がした。ひらひらとスカートをそよがせ逃げていく三つ編みの金魚は、それならなぜぼくの手をひいたんだろうか。


 『嗚呼、もう夏は』(4)へ


『嗚呼、もう夏は』(2)

 チーン、と鐘の音が小さくひびく。仏だんの前で手を合わせ、目をつむる。
 おばあちゃんが亡くなって、三年になる。
 母さんの話では、おばあちゃんは亡くなった時、まだ五十いくつだったそうだ。
 おじいちゃんはさらに早く、ぼくがまだ赤ん坊の頃に亡くなってしまったらしい。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、これからやっと親孝行できるって時に亡くなっちゃって。二人ともねえ、若い頃は陸上の選手だったんだって。足がとても速かったんだけど、向こうに行くのまで、そんなに駆け足にならなくてもよかったのに」
 おじいちゃんおばあちゃんの話をする時の母さんは、いつもさびしそうな顔をする。
「あんたの足の速さも、きっとおじいちゃんおばあちゃんの血のおかげね。二人に感謝しなくっちゃ」
「うん」
 母さんには悪いけど、おじいちゃんのことは記憶にもないし、おばあちゃんは何だか気むずかしい人のように感じられて、ぼくは苦手だった。あまりしゃべらない人だった。腰は曲がっていなくて、すらりと背が高くて、そういうところも怖く感じられた。けれど母さんの前でそんなことを口にするのは気がひけるから、ぼくはただうなずくばかりだった。
 仏だんの中の遺影を見る。にこやかに笑うおじいちゃんと、すました顔のおばあちゃん。二人が一緒にいるところが、ぼくには想像できない。
 母さんは、おばあちゃんにはあまり似ていないようにおもう。おじいちゃんの方は、どことなく面影があるような気がする。ぼくはどっちに似ているんだろう。どっちに似ていても、あまりうれしいとはおもわない。そんなことを考えるぼくは、冷たいのかもしれない。
 お参りがすんだ後、ぼくは冷凍庫からアイスを取り出し、母さんはリビングに座ってテレビをつけた。ぼくにはつまらないだけの昼間のテレビも、大人には面白いんだろうか。「なつかしの歌謡曲」なんて番組を、母さんはまじまじと見入っている。
 さっさとアイスを食べ終わると、ぼくは玄関へと足を向けた。
「遊びに行ってくる」
「夕飯までには帰るのよー」
「はーい」
 ぼくはドアを開けて外へ出た。


「……あら、なつかしい。お母さん、この歌好きだったよね」

 ◆

 今日もまた、鳥居の前に自転車をとめ、境内に入る。
 あれから毎日のように神社に通うようになった。あいにくあの子とはまだ再会できていないのだけれど、何しろ接点がこの神社だけなので、今日こそはと期待しながら、ぼくは一日の大半を神社で過ごしていた。
 再会の時がおとずれるまでのあいだ、走る練習もしていたけれど、それだけではバテてしまうし、ただ待つだけなのも退屈なので、ぼくは境内を散歩するようになった。
 神社の中には、意外といろんなものがある。手を洗うところ、絵馬をかざるところ、おみくじを引くところに、そのおみくじを結ぶ木。正面のさいせん箱と、裏のさいせん箱。お堂にしても一つや二つではなく、大きさや立っている場所もさまざまだ。裏門があることもはじめて知ったし、そのすぐ横にはおいなりさんのお堂があった。もしかしたらあの子は裏門から出入りしてるんだろうか。だとすれば、神社の関係者なんだろうか。神主さんと親せきだとか、そんなような。
 そういえば、神社に通うようになってから、他の子がここで遊んでいるのをまったく見なくなった。
 たいていだれかしらは遊びに来ているものだったのに、あの子と会って以来はただの一人も姿を見ない。偶然にしてはあやしい。ひょっとすると、あの子はただの人間ではないのだろうか。と、おいなりさんを眺めながら、そんなこともつい考えてしまう。
 一方で、人間でないならどうだというのだ、という気もちにもなる。たとえ神様やお化けのたぐいだとしても、ぼくはあの子に怖さは感じなかった。正体が何であっても、一人の女の子として見ていることに変わりはない。
 一人の女の子として、か。自分でそう考えたことなのに、何だか妙な心地がする。
 さらにこの神社には公園のようになっているところもある。シーソーにブランコに鉄棒に砂場。参道を外れたところにはどこも砂利がしかれているけれど、この公園のところだけは土になっている。ぼくも小さい頃からここで遊んでいるけれど、もっとずっと昔から子どもの遊び場として活やくしていたんだとおもう。砂場に、だれかの忘れものらしいスコップが転がっている。
 あの子はまだあらわれない。そろそろ日も傾きかけている。今日も空ぶりに終わりそうだ。最後にひと走りして帰ろうか。そう考えた時にふと、鉄棒が目にとまった。
 走るのに比べて、逆あがりはそんなに得意ではない。せっかくだし、ちょっと練習しようと、鉄棒に手をかける。
 夕暮れをめがけ、足をおもいきり蹴りあげる。回りきれずに失敗。もう一度いどんでみたが、やっぱり回りきれない。くそ、今度こそ。ムキになって足を蹴りあげようとした時、
「ねえ」
 突然、後ろから声をかけられた。気が動転して、回ろうとした勢いそのままに胸を鉄棒に強く打ちつけた。苦しくてその場にしゃがみこむ。
「大丈夫?」
 苦しみながらもふり向くと、声をかけてきたのは、やっぱりあの子だった。
 どうにか呼吸をととのえて立ちあがる。まさかこんなタイミングで再会するとはおもわなかった。
「逆あがりの練習?」
「えっ、いや、えーと、その……うん」
 言葉につまってしまう。いつもいつも突然すぎて、頭が働かない。
「ちょっとどいてみて」
 そう言って女の子は、鉄棒に手をかけた。
「こうするの」
 すらりとのびた長い足がきれいに円をえがいて夕暮れを真っぷたつにする。その後を追って、ひらひらと波うつスカートが夕暮れを飲みこんだ。
「余計な力を入れないようにするの。ほら、やってみて」
 うながされ、ぼくは真っ白な頭のまま、何にも考えずに足を蹴りあげた。
 女の子の顔も、スカートも、世界ぜんぶが一瞬だけさかさまになる。そして元の世界に着地し、ぼくは逆あがりに成功した。
「ね。できたでしょ」
 女の子はニコリともせずに、ただポツリとそう言った。
 一回転して戻ってきた世界は、本当に元の世界なんだろうか。ぼくはよくわからなくなっていた。



 『嗚呼、もう夏は』(3)へ



『嗚呼、もう夏は』(1)


   《クロマニヨンズ11th『ラッキー&ヘブン』に捧ぐ》


 一、 足のはやい無口な女子


 ガララン、と鈴の音がひびく。その後ろからドタドタといくつもの足音が遅れてやってくる。ふり向いてガッツポーズ。同級生たちは息を切らして、その場に座りこむ。
「おまえ、速すぎー」
「へへ」
 家から学校までの道の途中に、古い神社がある。
 外から見るとあまりそんな風には見えないのだけれど、鳥居をくぐって中に入ってみれば意外に広い。隅の方にはブランコやシーソーなどが置かれてもいて、放課後になるとぼくらはよくそこで遊んでいた。特に鳥居からお堂までのやたらに長い一直線の参道は、駆けっこには持ってこいで、よーいドンでだれが最初に鈴を鳴らすかの勝負では、ぼくは負けたことがない。
 一度、友だちが二つ上の兄を連れてきたことがある。中学で陸上をやっているらしかったが、勝負はぼくの勝ちだった。中学に入ったらぜひ陸上部にと、その時にスカウトもされた。
 得意になって、なわをぐるぐる回す。鈴の音は、ぼくにとって勝利の音だった。

 夏休みに入って、宿題もそこそこにぼくは友だちの家へと向かっていた。
 神社の前を通りかかった時、タタタタッと参道を駆ける音が聞こえた。今日はだれが駆けっこをしてるんだろうと鳥居からのぞいてみると、ひらひら跳ねあがるスカートとその下にのびる長い足がいきなり目の前にあらわれた。
 不意をつかれておもわず後ろにのけぞったけれど、向こうも鳥居の直前で急ブレーキをかけて止まり、おどろいたような顔を見せる。すらりとした長身の、三つ編みをした女の子だった。
 駆けっこで競っているのはたいてい男子で、女子が走っているのはめずらしかったし、何よりこの辺りでは見かけない顔だ。六年生だろうか。それとも中学生?
 じろじろと見てしまったせいか、その子はきまり悪そうに一礼すると、回れ右してお堂まで走り去っていった。その後ろ姿がみるみる小さくなっていく。おどろいて、おもわずぼくも鳥居をくぐり、お堂まで一心に走った。さいせん箱のところまでやってきて周囲を見回したけれど、女の子の姿はすでになかった。
 心臓の音がうるさいくらいに大きく速くなっている。あの子と駆けっこしたら、ぼくは負けてしまうかもしれない。

 ◆

 昼間のテレビはどうしてこんなにつまらないんだろう、と考えながらエアコンの効いたリビングでアイスを食べていると、母さんの声が飛んできた。
「あんた、ひまならちょっとおつかい行ってきて」
「どこに?」
「本屋さん」
「ええー」
 家から学校までは歩いて15分くらいの道のりで、町の本屋はそこからさらに15分くらい先にある。この暑い中そこまで行くのはしんどい。
「注文してた本が届いてるの。こないだおじさんにもらった図書カード二枚あるし、一枚あんたにあげるから。ね、行ってきてよ」
「しょうがないなあ」
 ちょうど欲しいとおもっていた図鑑もあったので、ぼくはおつかいを引き受け、自転車で本屋に向かった。
 ぼくらの学校は小高い丘の上に建てられているので、そこまではなだらかな上り坂になる。おかげで自転車をこぐたびに汗が吹き出てくる。う回すれば平坦な道を走れるが、時間も倍かかってしまうから、さすがにそれはおっくうだ。それに学校をこえれば、本屋まで今度は逆になだらかな下り坂だ。すずしい風を受けながらぼくはさっそうと自転車を走らせた。
 本屋でおつかいの本と図鑑を無事に手に入れ、もと来た道をまた戻る。早くエアコンの効いた部屋ですずみたいと、学校を過ぎて坂道を下っている時にふと、神社の鳥居が前方に見えた。
 あれから、あの女の子のことが妙に気になっていた。ぼくよりも速いかもしれない女の子。ひらひらと波うつスカートが、あっという間に遠ざかっていくのがまだ目に焼きついている。
 鳥居の前で自転車をとめると、ぼくは境内に入った。
 境内に生えている木々から、アブラゼミがこれでもかと元気よく鳴いている。今日はだれも来ていないようで、セミの声がうるさいことをのぞけばひっそりとしている。
 そういえば、これだけ広い神社であるのに、神主さんを見たことがない。それでいて、いつ来ても小ぎれいに掃除されたあとが見られる。考えてみれば不思議だった。
 あの女の子のことをおもい出す。どこの子なんだろう。六年生かもしれないし、夏休みのあいだだけこっちに来ている子なのかもしれない。もしかして転校生なのかもしれない。
 もう一度、辺りを見回してみる。やはりだれもいない。ぼくは鳥居の前のスタート地点に立った。
 位置について。
 よーい。
 どん!
 全力で走った。セミの声が遠のき、お堂がぐんぐん近づいてくる。さいせん箱と、その前のなわを視界にとらえる。
 いける。そうおもった時だった。目の前に、ひらひら跳ねるスカートの幻が立ちあらわれた。
 それはおそろしい速さでぼくの前を駆けていく。必死で食い下がろうとするけれど、どうしても抜けない。追いつけない。
 さいせん箱の前で、幻はすうっと消えた。遅れてゴールしたぼくは、顔をあげて鈴を見た。
 なわをつかむことが、できない。
 はじめての感情だった。途方にくれてしまう。くやしいというのでもない。実際に勝負したわけではないのだから、くやしいも何もないのだけれど。ただ、もう一度あの子に会ってみたいと、なぜだか強くそうおもった。
 セミの声が、またうるさく耳に届く。おつかいの途中だったことをおもい出す。ただでさえ暑いのに、全力で走ったもんだからすっかり汗びっしょりだ。
 境内を出ようと、鳥居の方を向いた時だった。ふと、セミの声にまぎれて別の声がするのに気づいた。高くすんだ声。
 だれかが歌っている。
 再びお堂の方を向く。歌はその向こうから聞こえてくる。聞いたことのない歌だ。ぼくは砂利をふみしめ、裏へと回ってみた。
 お堂の先には、もう一つお堂があった。お堂とお堂のあいだにはだれもいない。歌はそのさらに奥から聞こえる。
 お化けだとかそんなものは信じていないけれど、何となしに不安もおぼえる。そろそろとお堂に近づき、裏をそっとのぞきこんだ。
 想定外のものを見ると、人の呼吸は一瞬止まる。
 そこにあるのは、さいせん箱だった。わざわざこんな奥にまで回ってきておさいせんを入れていく人なんているんだろうか。
 そして、そのさいせん箱に、体そう座りの背中をあずけて歌っている人を見た時、想定をはるかにこえ、鉄棒やジャングルジムで胸を強く打ちつけた時みたいな息苦しさにおそわれた。
 歌っているのはあの女の子だった。
 とっさにお堂のかげに隠れてしまった。頭がうまく働かない。確かにさっき、もう一度会ってみたいとぼくは強くおもった。おもったが、今すぐだなんてわけではなかった。まだ何の心の準備もできていないのに、いくら神社だからってご利益ありすぎだろう。いや、そもそもおさいせんも投げていないのだから、ご利益も何もないのだけれど。
 混乱する気もちを落ちつけようと、けん命に呼吸を整える。女の子はまだぼくに気づいていないようで、歌をつづけている。ぜんぜん知らない歌だけれど、その歌声を聞いているうちに、だんだんと息苦しさもやわらいできた。
 突然のことであわててしまったけれど、せっかくまた会うことができたのだ。ぼくは意を決して女の子に声をかけた。
「ねえ」
 今度は女の子の方が突然のことにおどろいてしまったようで、目をまるくし、顔を真っ赤にさせて、その顔を抱えていたひざにうずめてしまった。
「ご、ごめん。いやあの、歌ってるのが聞こえたから、だれかいるのかなーって」
 女の子は顔を伏せた状態のまま、何も答えない。もしかして泣かせてしまったんだろうかと、不安になる。
「びっくりさせたんならごめん。でも何かきれいな声だなとおもって、気になってさ。何を歌っていたのか、聞いてもいいかな」
 女の子は無言のまま動かない。困った。ここは退散した方がよいのかなと、そう考えて戻ろうとすると、
「……ズ」
「えっ?」
 女の子が顔を伏せたまま、ぽつりと言った。
「ピンキーとキラーズ」
 聞いたこともない名前だった。
「それ、だれなの?」
「……知らないの?」
 ようやく女の子は顔をあげてくれた。とても意外そうな表情を浮かべている。そんな反応をされる方がむしろ意外におもえたけれど、泣いていたわけではなかったようで、ホッとする。
「うん。聞いたことない」
「……めずらしいね」
 女の子はゆっくり立ち上がった。かなり背が高い。
「君、何年生?」
「五年」
「じゃあ、ぼくとおんなじだ」
「そうなんだ」
「でも、学校で君のこと見たことないよ」
「転校してきたから……」
 転校生。それなら夏休み後にも学校で会うことができる、とぼくは安心した。
 ……安心? なぜ安心するのだろう。自分の心がよくわからない。
「ねえ、こないだ参道を走ってたよね。君すごく足が速いんだね。びっくりしたよ」
 ぼくの言葉に、女の子はハッとした顔を見せる。
「あの時の……」
 女の子の言葉にぼくもうなずいた。おもい出してくれたようだ。
 と、ぼくもおつかいのことを不意におもい出した。いいかげん帰らないと母さんも心配するだろう。
「ねえねえ、この神社にはよく来るの?」
「……どうかな」
「ぼく、もう帰らないといけないんだ。またここで会えるかな」
「……どうかな」
 女の子はうつむいている。
「迷惑でなければ、また会えたらいいな。今度、歌のこともよかったら教えてよ。じゃあ、またね!」
 ぼくは鳥居までを全力で駆けていった。もしかしたら、向こうもぼくの速さを気にかけてくれるんじゃないかと、ほのかな期待を胸に、全力で走った。

 ◆


 『嗚呼、もう夏は』(2)へ


『出てって』

 はな唄部・くちギター課では今、ジャカジャン派とデデッデ派とによる派閥争いが激化している。すでにヨウオン氏とハツオン氏はジャカジャン派に、ソクオン氏はデデッデ派にそれぞれ取り込まれた。残るダクテン氏にとっては実に頭の痛い事態である。
 ダクテン氏は「心まで濁らせず」を信条とし、元より争いは好まない。だが両派にとってダクテン氏は不可欠な存在であり何をもってしても獲得すべしと双方せめぎ合っている。己の所為であるのかとダクテン氏は思い詰めたが、そんな氏の憂鬱をなぐさめてくれる唯一の存在が、ハンダクテンの君であった。
 そうしてついに、業を煮やした両派から詰め寄られ、「どちらにもつく気がないなら、即刻ここから失せろ」と罵られたダクテン氏は、翌日その言葉どおりに姿を消した。
 結果、シャカシャン派もテテッテ派も気のぬけた炭酸のようにもはや争う力も格好も失い、双方ともあっけなく解散してしまった。
 自らが去ることで争いを終わらせたダクテン氏であるが、今どこで何をしているのかはわからない。噂では、共に消えたハンダクテンの君と仲睦まじく、ビバップを奏でているとも、ドゥワップをくちずさんでいるとも。



『どん底』

 暗くて深い深い穴の、いちばん底の底にいた。其レはそこで、本を読んでいた。
 光も届かないような暗い暗い穴の中で、どうやって?
 其レは指で本を探り、文字ひとつひとつの僅かな凹凸の違いを感じとって読んでいた。
 いったい何の本を?
 其レが読んでいたのは、古くから伝わる唄を綴った本だった。バイオリンと猫がたわむれ、牛が月を飛び越えるような唄を。
 其レはバイオリンも猫も牛も、月さえも実際に見たことはなかったが、それでも本に書かれてある光景を考え、想い浮かべて楽しんでいた。
「この世界はなんて愉快なんだろう」
 いつもそう考えていた。真っ暗闇の穴の底では、頭の中がそのまま外の世界でもあるのだ。

 ある時、穴の底に星が降ってきた。

 雷のような轟音と共に星は底へと突き刺さった。バチバチ弾ける閃光が闇を照らしだす。其レは呆気にとられた。
 照らされたことで初めて目にした穴の中は、頭の中とはずいぶん違った。自分の手や足も、それから本も、自分の想像を超えていた。其レは身体が震えてくるのを必死にこらえた。
「痛ててて、参った参った」
 と、底に突き刺さった星が起き上がった。其レは怖る怖る星に近づき、そっと話しかけてみた。
「あの、大丈夫ですか」
「うん? 何だ、先客がいたのか。おやおや、こんにちは」
「こんにちは。あの、あなたは誰ですか」
「おれはナガレダマ。ひとによっちゃあ、ナガレボシとも呼ばれるけれどね」
「ナガレダマさん、あなたはどこからやってきたのですか」
「ここが何かの中であるなら、その外からだろうね」
 おどけた口調でそう答えるナガレダマに対し、其レはぐっと顔を近づけ早口でまくしたてる。
「月を、月を見たことはありますか、どんな形ですか、キレイですか、大きさは、色は、えっと形は、見たことありますか、そこに牛はいましたか、牛はどんな形で……」
「まあまあ、落ちつけよ」
 ナガレダマは其レをなだめながら、やはりおどけた調子で答える。
「月か。月なら見たことあるどころか、突き刺さっていたこともある。牛はいないが、兎ならいるぞ」
「ウサギ?! 『ウサギのパイ』のウサギが月に?! じゃあ、じゃああの……」
 矢継ぎばやに繰り出される質問に、ナガレダマはのらりくらりとしながらもひとつひとつ答えていく。ナガレダマの話を聞くたびに、頭の中の「外の世界」が塗りかえられていく。其レはもはや身体の震えを止められなかった。
「外の世界はなんて愉快なんだろう!」
 興奮してそう叫ぶ其レを、ナガレダマはじっと見ていた。
「……おまえさん、ここから出たことがないんだな。もしかして、自分が何者なのかも考えたことがないんじゃないのか」
「えっ?」
 ナガレダマの云うとおりだった。自分が何者であるかなど、其レは考えたこともなかった。考える必要もなかったのだから。突然に降ってきた疑問に、其レは少なからず動揺した。
「……わたしは、わたしはいったい何者なのでしょう?」
「うん? まあそうだな……」
 ナガレダマはおもむろに立ち上がり、穴の上方を仰いだ。そして再び向き直り、其レに訊ねた。
「おまえさん、ここから出たいとおもうか?」
 予期せぬ問いに、其レは黙ってしまった。考えもしなかったことばかりが頭に押し寄せてきて、言葉が出てこない。
 しばし口を噤んでいたが、其レは意を決してナガレダマに訊ねてみた。
「ここから、出る? 出られるのですか?」
「それは、おまえさん次第だよ」
 ナガレダマはおどけることもなく真面目な顔で続ける。
「そもそもだ、この暗い穴の底に、おまえさんはずっといたんだろ。そんな自分を、おまえさんは不幸だとおもうか?」
 理解が追いついてこない。不幸? 不幸とはどういうことだろう。其レがきょとんとしているのを見て、ナガレダマはふっと笑みをこぼした。
「どういうことかわからない、って顔をしてるな」
 ただただ頷くと、ナガレダマがさらに続ける。
「幸か不幸かってのは結局、比較から生まれるもんだ。自分と他人との比較、過去と現在との比較。しかしおまえさんは、ずっと一人で、何も変わることなくこのどん底で過ごしてきた。不幸も幸福もないはずだよ。

 外の世界に出れば、そうはいかない。いろんなことが変わっていかざるを得ない。仮にこのどん底が地獄だとして、穴の外が天国だとする。けれど天国が本当に愉快ですばらしいところだなんて、なぜ言える? そこで何が待っているかなんて、行って体験してみなければ、本当にはわからない。出ない方がマシだったと、後悔するかもしれない。

 だから、おまえさん次第なんだ。おれがこの穴に落ちてきて、おまえさんと出会ったこと。そして外の世界へ連れ出すことが、おまえさんにとって幸運だったのか不運だったのか、決めるのは、おまえさん自身だってことだ」

 ナガレダマの言葉を其レはただ黙って聞いた。聞きながら身体を震わせた。その震えが何に因るものなのか、もはやわからなくなっていた。
 ふと、手元の本に目を向ける。そして本をひらく。読みなれたはずの、目にするのも初めての本である。
 ひらいたページに書かれてある文を、ゆっくり読んでみる。

 薔薇は 赤い
 すみれは 青い
 砂糖は あまい
 そして あなたも

 其レは本から目を離し、ナガレダマをじっと見据えて訊ねた。
「わたしは、何いろですか?」
 ナガレダマが静かに答える。
「おまえさんは、青いよ」
「では、わたしはすみれなのですか?」
「いいや」
 ナガレダマが、其レの手にそっと触れる。
「おまえさんは、薔薇さ。それがおまえさんの正体だ」
 頭の中で、閃光が弾ける。さっき、自分が何者であるのかを初めて意識した。そして今、何者であるかを知った。何かとてつもない感情が自分の中で爆発するのを、《青い薔薇》は、はっきりと感じとった。
 《青い薔薇》は、ナガレダマの手を強くにぎる。
「外の世界に、連れていってください」
「ようし、わかった」
 ナガレダマも手を強くにぎり返す。

 二人ですっくと立ち上がる。「背中に乗りな」と云われて《青い薔薇》は素直に従う。
「そういえば」とナガレダマが云う。「おまえさんの名前を決めなければな」
「え? わたしは薔薇ではないのですか?」
「それは、フツウ名詞ってやつだ。物事の形状や性質をあらわすためのものだな。たとえば薔薇やすみれや、それから流れ弾なんてのはな、自分たちだけでなく他にもたくさん存在しているものなんだ。それらを総称するのがフツウ名詞だな。わかるか?」
「何となく」
 と云いながらも、やはりよくはわからない。それを察して、ナガレダマはさらに説明する。
「最初にも話しただろ、幸か不幸かは何かの比較から生まれるってな。つまり、おれたちにはおんなじような種類のやつらが他にもたくさんいて、それは集まってしまえば、見分けなんかつかない。だけどおまえさんもおれも、世界にたった一人しかいない。たくさんいるのに、一人しかいない。比較は、そのひずみから生まれてくるんだよ。
 だから、おれたちは自分をしっかり定めておく必要がある。そうすれば、見分けつかなかろうと、比較されようと、自分が自分であることをきちんと掴んでさえいれば、幸も不幸も、どうってことはない」
 やはりどういうことなのかよくわからなかったが、ナガレダマはきっと、とても大切なことを話しているのだと、《青い薔薇》は真剣に耳を傾けた。
「そういうわけで、おまえさん自身の名前、おまえさんだけの名前がいるんだ。コユウ名詞ってやつがな。ボー・ピープとか、ハンプティ・ダンプティとか、そんな感じのな」
「わたしだけの名前……どんな名前なんでしょう?」
「そうだなあ。おまえさん青いから、ブルースってのはどうだ。ようし、おまえさんはブルースだ」
「ブルース……」
 何だか不思議にくすぐったい気持ちがする。
「話が長くなったな。ようし、じゃあそろそろいくか」
「ちょっと待って。ナガレダマさん、あなたのコユウ名詞は? 何という名前なのですか?」
 するとナガレダマは、不意に不敵な笑みをもらした。
「おれの名は、ハッセン・ハッピャク!」
「ハッセン?」
「ハッピャクだ、おぼえときな。さあて、飛ぶぞー!」
 云うが早いかハッセン・ハッピャクはひと際おおきく光り輝いた。ブルースは慌ててしがみつく。
「しゅっぱーつ!」
 ハッセンハッピャクは猛烈な勢いで飛び上がった。落ちてきた時と同じような轟音と閃光を引き連れてぐんぐんと上昇していく。
「ああそうそう、云い忘れてた」
 背中越しにハッセン・ハッピャクが云う。
「いま何時かわからないがな、もしかしたら外に出た瞬間に、おまえさんと同じ色が出迎えてくれるかもしれないぜ」
「わたしと同じ色? それは何です?」
「まあ見てのお楽しみだな。もっとも……」
 話している間にも二人はどんどん上昇していく。そして昇っていく先に小さく光が射しているのが見えた。ブルースは息を呑んだ。
「……もっとも、外に出た瞬間に、おまえさん、また名前が変わるぜ」
「えっ?! どういうこと?」
「云っただろう、外に出れば、いろんなことが変わっていくってな」
 ブルースは頭がぐるぐる回った。外の世界とはそれほどにも理解の追いつかないものなのか。
 と混乱している暇もなく、光がぐんぐんと近づいてくる。再びおおきく息を呑む。
「出口だ!」
 どおん! という轟音が鳴り響いた。まっ暗闇をあっという間に置き去りにするほどの、まばゆい光に包まれる。ブルースはおもわず目をつむった。
「出たぞ! ここが外の世界だ!」
 ハッセン・ハッピャクが叫ぶ。そっと目をあけて見てみれば、見渡すかぎりの青い青い青い世界が、信じられないほどに広がっている。

「いいかブルース、おまえさんは今からな……」

 放心状態でいるブルースの耳に、ハッセン・ハッピャクの声が、高らかにとどろく。

「たった今から、おまえさんの名は、いいか、おまえは、ロックンロールだ!!」



『リトル・スクールガール』

「おはようさん」と声をかけられ、少女は無言で会釈する。「おはようさん」「おはようさん」「おはようさん」大人たちに笑顔で声をかけられ、少女は無言で会釈する。
 学校へ行かなくてはならないから、少女は通学路を急ぐ。
 路の途中に咲く花は、剃刀の葉っぱとドリルの花で少女の足を狙ってくる。いつもひらりと躱してしまうので、一度も傷つけられたことはない。
 散歩の犬とすれ違う。犬は少女を見るたびいつも「ワン」と吠える。リードに繋がれた飼い主が少女へ駆け寄ろうとするのを制しながら。
 雨雲に乗ったカラスは、少女に黒い雨を浴びせたくてたまらないのに、少女が根っからの晴れ女であるためにことごとく失敗する。
 有象無象の大人たちが少女に笑顔で声をかける。
「おはようさん」「おはようさん」「おはようさん」「おはようさん」「おはようさん」「おはようさん」「おはようさん」「おはようさん」「おはようさん」「おはようさん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」「さん」……
 学校へ行かなくてはならないから、少女は通学路を急ぐ。



『サグラダ・ファミリア』

 タンポポのような顔をしたペットボトルの蓋の上に、紋白蝶がそっと降り、ブランコを漕ぐ子どもの靴がその上に飛んでくる。靴につく泥が逃れようとその腕を真上にのばし、日光のロープを無心につかむ。完成まで、あとすこし。

calendar
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< November 2017 >>
nonaiblues
selected entries
categories
archives
recent comment
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM